9件の議事録が該当しました。
表示内容の正確性については最善を尽くしておりますが、それを保証するものではありません。

該当会議一覧

  • 1

那覇市議会 2005-12-08 平成 17年(2005年)12月定例会−12月08日-04号

時にはテント小屋みたいなものがあって、その山小屋みたいなところには、近くにはジャガイモが植えられたり、本当に黙認耕作地になっているんですよ。行ったら、心の中では笑うというのか、おかしいというのか、これでいいのかなということであります。  そしてその一帯の状況、簡単に説明しますと、遊歩道があって、遊歩道には魚の鱗状態で、フラワーポットみたいにたくさん、小間があります。そこは雑草が生えております。

西原町議会 2004-12-17 12月17日-02号

人々は芋とソテツマース汁を食べて遺骨収集と、テント小屋つくりから村の復興を手がけていきました。大きな驚きはソテツのデンプンをモービル油エンジンオイルで天ぷらにして食べざるを得なかった、下痢しながらも。このような筆舌に尽くしがたい悲惨な戦争体験、分けても一家全滅世帯数が476世帯で、一家全滅率22%、5軒に1軒強が全滅させられる。

西原町議会 2004-03-25 03月25日-08号

終戦直後、この数えうたが流行し、収容所テント小屋の中で、かんから三線に合わせてよく歌ったというようなことでですね。こういう音楽、うたなども今度の平和音楽祭で取り入れないものかどうか。私は、かんから三線にも非常に興味を持っています。その唄にも興味を引くし、それからお互いがよく聞いています軍人節とか、そういうのもありますよね。

那覇市議会 2002-06-14 平成 14年(2002年) 6月定例会-06月14日-06号

そのような状況の中、生き残った人々は、あすへの生きる希望を失い、失意のどん底にあえぎ、着るものもなく、食うに食なく、住むに家なしの中、米軍支給食糧配給や軍服の払い下げ、テント小屋支給等による、極めて劣悪な生活環境の中からようやく立ち上がり、復興への兆しが見えた時期でありました。  

沖縄市議会 1997-09-26 09月26日-06号

住民は戦禍から立ち上がるために逸早くトタン葺きのバラックやテント小屋生活を始めたが、嘉手納基地の建設が進むにつれて、他の地域からの人口流入が激しく、基地に依存した形での街づくりが顕著になってきた。基地を背景とした街づくりの要請として、水道敷設が急がれることになった。水道敷設基地と隣接した旧ビジネスセンター通り、現中央パークアベニューから着手されたのもうなずける。

那覇市議会 1996-03-08 平成 08年(1996年) 3月定例会−03月08日-03号

テント小屋からブロック建て、そして鉄筋コンクリート、そしてプールもつくる。そうすると、この特約条項があれば、皆さんはその承諾料を、地主にあげなきゃいかなかったわけじゃないですか。なぜ特約条項を入れなかったのか。皆さんがつくった契約書であります。どうしてなのか、そのへんを具体的にご説明をお願いします。 ○副議長(大城勝夫君)  教育長嘉手納是敏君。 ◎教育長嘉手納是敏君)  お答えいたします。

  • 1